ぼくの家の玄関脇の和には小さな神棚があって、ぼくが泊まりがけの出張をしたり、子供が修学旅行や試験に出かけるとなると、妻がお灯明を上げて柏手を打ち、そなえてある火打ちを持ちだして門口で切り火をする。これは送る側にも送り出される側にも気持の良い習慣だと思う。だからと言ってわが家の家族がとくに信心深いわけではない。神棚にしても、そこには毎年初詣の時にもらってくる地元の氷川神社の御札が、その他の旅先などで各地の神社からいわば気まぐれに受けてくる御札、御守り、破魔矢の類が雑居しているだけだし、そこに毎日お参りするのではなし、暮は別として普段はそうマメに掃除もしないのだが、何かというと思い出して神頼みをするというのが、決して誇れる話ではないが、まことに日本人的でもあるわが家の現状である。
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切り火をするのは神への信仰というよりも、「気をつけて行ってらっしゃい」とか「頑張ってね」というような挨拶みたいなものにすぎないのだが、じゃあただの挨拶かと言うとそうでもないので、そこには火に浄めの力があるという民俗信仰が生んだヴィジュアルで美的な形式があり、それは確かに神というものの意識につながっている。そしてこの美的な形式性があるからこそ、切り火をすると門口で送る者も送られる者も快い緊張を感じ、いうなれば気持がシャンとしてケジメがつく思いがするのだ。こういう暮らし方をしているので、この小さな神棚はぼくにとって不可欠な住まいの仕掛けの1つになっているのだが、現在の都市住宅には神棚のない家も少なくないようだ。